『プロイノベーション設立までの歴史』
2022/11/14

『プロイノベーション設立までの歴史』

私は、小さいころから『会社に就くのではなく、職に就きたい、職人になりたい』という考えを持っていました。
そのため、大学卒業後はシステムエンジニア(SE)を志望し、、ある人材派遣会社に入社しました。

プログラミングがやりたいと思い、入った会社だったのですが、コールセンターに配属され、運用サポートの担当にされました。
開発に配属されたメンバーは9カ月くらいの研修期間があるのに比べ、コールセンターの研修はわずか2カ月で、それを終えると、3カ月目から実際の業務を開始することになりました。

まずは目の前の仕事に全力で取り組もうと、一生懸命仕事を覚え、数カ月後にはシフトリーダーになれたのですが、その後は思ったような結果を出すことができませんでした。
配属されてから1年半ほどが経ち、仕事がマンネリ化してきたことで、一度、社会人になってのスキルを自分なりに振り返ってみると

・電話をしながらタイピングをすることで、パソコンのタイピングが速くなった
・コールセンターの業務知識が少しついた
という程度で、学生の時と比べても、そこまでの成長を感じることができませんでした。

それに比べて、開発に配属されたメンバーは、しっかりとした研修期間が終わった後に、プログラミング技術をどんどん取得しており、自分との差を目の当たりにすることで、焦りを感じるようになりました。
さらに、同じ大学出身で不動産業界に入った友人は、驚くほど高額な給与をもらっている状況もあり、自分は何をしているんだと、モヤモヤした気持ちで頭がいっぱいになることもありました。

そんな現実から逃げ出したいためか、ボーナスで買ったバイクに乗り、夜の街をアクセルフルスロットルで、車の間をすり抜けるような危険なこともするようになっていました。
今思うと、よく事故を起こさずに乗り切っていたなとは思います……。

「さすがにこれではダメだ!」と思い、転職することを決断しました。

当時は、転職市場も選び放題ということではありませんでしたが、若いというだけで採用される確率も高かったので、そこまで苦労はせずに転職ができました。
転職先は、ソフトウェア会社でした。

この会社では、きちんと開発チームに入ることができ、プログラミングの研修も受けることができました。
研修も終わり、「やっと念願のプログラミング技術が手に入る!」とワクワクしていたのですが、現場に出てからは想像以上につらい生活が始まりました。
夜中に家に帰ることも多く、今の世の中では考えられない残業をしていました。
それは体調にもあらわれ、食事をしても味を感じなくなったり、お腹を中心に蕁麻疹が出たり、キーボードの打ち過ぎでバネ指になったり……。さらに、医者に行けば「仕事が向いていないから、できることならやめたほうが良い」と、色々な病院で言われるほどでした。

そのような状態だったため、「もうこの会社を辞めて、プログラミングの道は諦めよう」と考え始めるようになりました。
せっかくソフトウェア会社に入ってプログラミング技術を手に入れようと頑張ってみたものの、結局のところ、思った通りにプログラミング技術を習得することができず、会社を辞め、プログラマーも諦めようと考え始めるようになったことで、会社での仕事は面白く感じなくなりました。
特に、プログラミングしているときは、面白くないも通り越して、苦痛でしかなく、家に帰ってからプログラミングの勉強することもありませんでした。

それに比べて、私の隣に座っている年下の男性社員は、プログラミングが楽しくて仕方がないようで、家に帰ってプログラミングの勉強をするのはもちろんのこと、仕事でちょっとした隙間の時間があれば、技術書を読んでいました。
当たり前ですが、彼は、メキメキとプログラミング技術を習得していましたね。
そんな年下の男性社員の姿を見ることで、「こういった人がプログラマーに向いているんだ。自分には向いていない」と、できない理由を資質のせいにし、プログラマーを諦めようという思いは、より一層強くなっていました。

そんな矢先、プロジェクトの現場が変わり、新しい現場で人生の転機を迎えることになりました。

その現場では、当時としては珍しいオブジェクト指向によるモデリング開発を行うパッケージを独自開発し、そのパッケージを使いながら通常よりも4倍の生産性を叩き出していたのです。
私は、その現場で、いまでもお世話になっている大先輩と運命の出会いをしたのです。

その大先輩は、なぜだかわからないのですが、私のことをとても気に入ってくれて、連日のように銀座や六本木に連れていってくれました。
”これがITバブルなのか!”と肌で感じましたね。

さらに、その大先輩から「俺の代わりに社長をやれそうな奴はいないか」と話を切り出され、即座に「自分にやらせてください!」と立候補しました。その後は「お前に現場のマネージメントを任せるから、社長やってみな」とお言葉を頂き、
私は29歳で株式会社プロイノベーションを設立することになりました。

何もわからず立ち上げた会社ではありましたが、諸先輩方が作成したパッケージを軸に、仕事は定期的に舞い込んでくる状態であったため、また大先輩の色々な後ろ盾もあり、収入面で苦労することはありませんでした。

しかし、ここからバラ色の人生が始まるわけでもなく、今でも思い出すのも嫌なくらい、人生最悪の日々が始まるのです。

大先輩の代わりに現場のマネージメントを行うとの約束で始めた会社は、自分の実力不足が表沙汰になるだけではなく、大先輩には毎日朝から晩までしごかれ、今だったら訴えられるんじゃないかと思うほど、絵にかいたような“鬼ブラック企業”だったと思います。

その頃は、心も体もやられてしまい、朝の出勤途中で疲れ切った自分の顔を見て、頬を数回殴ってから、作り笑いをして現場に入るのが日課でした。
そんな私の実力不足が原因なのか、仕事が思った通りにうまく取れなくなり、さらに震災も重なったこともあり、経営者を諦めようかと苦悩していました。

どうしようかわからなくなってしまった私は、怒られることを覚悟し、「最近、いくら頑張っても、全然うまくいかないんです。もう経営者としてやっていく自信がありません」と大先輩に相談しました。
すると大先輩は「下りのエスカレーターに乗っているときは、頑張らないほうが良いよ」と、サラッと優しい口調で答えてくれました。

私は正直、「お前社長だろ! 逃げるなよ!」と怒鳴られるのかと思ったので、その言葉に拍子抜けして、「どういうことですか?」と咄嗟に聞き返してしまいました。
そうすると、「上りのエスカレーターに乗っているときは、頑張ったほうが良いけど、下りのエスカレーターに乗っているときは、頑張らないほうが良いんだよ」と、少し丁寧に答えてくれました。

いつもは鬼軍曹のように怒る大先輩が、そのときばかりは精神的にやられてしまっている私の状況をくみ取って、慰めの言葉をかけてくれただけだろうと、そんなに言葉の意味を深く考えず、目線を落とした私の姿を見て、大先輩は私に言葉の意味が伝わっていないと勘付いたのか、次のように説明をしてくれました。

「”エスカレーター”ってのは、自分の力だけではどうすることもできない”時代の流れ”のこと。上りのエスカレーターに乗っているのは”良い流れ”に乗っている状態で、そのときに頑張れば、想像以上の結果がついてくるけど、逆に”悪い流れ”のときは、いくら頑張っても結果はついてこないものなんだよ。今は、”悪い流れ”のときなんだから、どんなに頑張っても疲れるだけで結果は出ない。こういうときは、しっかり休んだ方が良いんだよ」

その言葉に甘えるように、少し頑張るのをやめて”時代の流れ”を意識して休憩できたことが、今の自分を作り上げるきっかけとなったのかなと感じています。

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